タイで人員整理を行うとき、退職金の計算そのものは、実はほとんど難しくありません。月給を30で割って1日あたりの賃金を出し、勤続年数に応じた法定日数の表を引いて、掛け算をする。それだけです。電卓でもできますし、表計算ソフトなら数分で組めます。それにもかかわらず、タイの労働裁判所には未払いの解雇補償金をめぐる申し立てが絶えません。理由は計算間違いではありません。計算すべき項目そのものを見落とすからです。この記事では、タイ・ラヨーン県の日系自動車部品工場をモデルケースに、50名の人員整理で「見落とし」がいくらになるのかを、独自試算で正確に数えます。結論を先に言うと、3,582,000バーツです。
退職金計算で難しいのは、算数ではなく「何を計算すべきか」
タイに工場を持つ日系企業の人事・総務の方とお話ししていると、退職金の話はたいてい「日数の表」から始まります。勤続何年なら何日分、という表です。この表自体は労働者保護法(LPA)に明記されていて、解釈の余地はほとんどありません。だから、この表を見た瞬間に「なんだ、簡単じゃないか」と感じる方が多い。実際、その感覚は半分正しいのです。
問題は、その表が退職金計算の入口にすぎないという点にあります。タイの労働法における退職時の支払いは、性質の違う複数の条文が重なってできています。ある条文は「勤続年数」で決まり、別の条文は「なぜ解雇するのか」という理由で決まり、さらに別の制度は「その支払いにどう課税されるか」を決めます。それぞれ判断する人も、必要な情報も、間違えたときのリスクも違います。
そして、この重なりのうち真ん中の層が、日本側からもタイ側からも見えにくい位置にあります。日本の本社から見ると「退職金は現地の労務の話」であり、タイの給与担当から見ると「表の通りに計算した」で完結してしまう。誰も嘘をついていないのに、支払額が法定水準に届いていない、という状態が生まれます。
本記事は、この構造を3つの層に分けて整理します。そのうえで、「退職金計算AI」という言葉に何を期待してよくて、何を期待してはいけないのかを、正直に線引きします。先に申し上げておくと、この記事はAIを入れれば退職金の問題が解決するという主張はしません。むしろ、AIで自動化してよい層と、絶対に人間が判断しなければならない層を分けることそのものが本題です。
なぜ「いま」この話なのか — タイ製造業で人員整理が現実の議題になっている
退職金の計算方法は昔から変わっていません。それでもこのテーマを取り上げるのは、タイの製造業で人員整理が「もしもの話」ではなくなってきているからです。
タイ工業連盟や現地報道が伝える数字は、かなり厳しい状況を示しています。2024年1月から5月までのわずか5か月間で、タイ国内では561の工場が閉鎖し、15,342人の雇用が失われました。月平均にすると約3,000人が職を失っている計算になります。さかのぼると、2023年の通年では1,337の工場が閉鎖しており、2022年の997工場から340件増えています。工場閉鎖のペースは、明確に上向いています。
個別の事例も出ています。創業70年を超えるタイの老舗自動車部品メーカーYarnapund(YNP)は、資金繰りの悪化により、2024年11月26日から全従業員900人の解雇に踏み切りました。長い歴史を持ち、地域で名の知られた企業であっても、需要構造の変化には抗しきれなかったということです。
その需要構造の変化を象徴するのが、乗用車市場の顔ぶれの変化です。2026年のタイ国際モーターショーでは、BYDが予約台数17,354台を記録し、トヨタの15,750台を上回って初めて1位となりました。上位10ブランドのうち8つが中国メーカーでした。この1つの展示会の結果だけで市場全体を語ることはできませんが、日系メーカーとそのサプライチェーンが構造的な圧力にさらされていることは、現場の実感とも一致するはずです。
この環境で、日系工場が取りうる選択肢は限られています。生産ラインの統合、自動化投資による省人化、拠点の再編。いずれも合理的な経営判断ですが、どれもが従業員数の削減を伴います。そして後述するように、自動化を理由とする人員削減は、タイの労働法において特別な扱いを受けます。つまり、いま多くの日系工場が検討している打ち手そのものが、退職金計算の難易度を一段引き上げる引き金になっているのです。
退職金計算を3つの層に分ける

タイにおける退職時の支払いを、性質の違いで3つの層に分けます。この分け方は法律の条文の並び順ではなく、誰が何を判断し、どこで間違いが起きるかという実務の視点によるものです。
| 層 | 根拠 | 決まり方 | 判断に必要な情報 | 機械化のしやすさ |
|---|---|---|---|---|
| 層1 通常解雇補償金 | 労働者保護法 第118条 | 勤続年数と賃金だけで一意に決まる | 入社日、退職日、月給 | 高い。表引きで完結する |
| 層2 特別解雇補償金 | 労働者保護法 第121条・第122条 | 解雇の理由と通知の有無で決まる | 削減の理由、通知日、監督官への届出 | 低い。事実認定が要る |
| 層3 課税の扱い | 歳入法および関連省令 | 退職の種類と受給額で決まる | 退職事由の区分、支給額、勤続年数 | 中程度。ただし専門家の確認が要る |
この表で最も重要なのは、右から2列目の「判断に必要な情報」です。層1に必要なのは、人事システムに必ず入っている3つの日付と金額だけです。ところが層2に必要なのは、なぜその人を解雇するのかという経営判断の中身であり、これは人事システムのどこにも記録されていません。層3に必要なのは、退職事由が法令上のどの区分に当たるかという法的な整理であり、これも給与システムの外にあります。
見落としが起きるのは、ほぼ例外なく層2です。層1は表を引けば済むので間違えようがなく、層3は税額に直結するため税理士や会計事務所の目が入りやすい。層2だけが、「経営判断の情報」と「給与計算の実務」の間の谷間に落ちます。
層1|通常の解雇補償金は表引きで終わる — 労働者保護法 第118条
まず土台になる層です。タイ労働者保護法の第118条は、使用者が従業員を解雇する場合に支払うべき解雇補償金を定めています。
対象になるのは、勤続120日以上で、会社都合により解雇される従業員です。逆に言えば、従業員本人の意思による自己都合退職や、法定の重大な非違行為による懲戒解雇は、この補償金の対象外です。ここは実務でも比較的よく理解されている部分だと思います。
計算式は次の通りです。
1日あたりの賃金(月給を30で割った額)に、勤続年数に応じた法定日数を掛ける。
そして法定日数の表がこちらです。
| 勤続年数 | 支払う日数 |
|---|---|
| 120日以上1年未満 | 30日分 |
| 1年以上3年未満 | 90日分 |
| 3年以上6年未満 | 180日分 |
| 6年以上10年未満 | 240日分 |
| 10年以上20年未満 | 300日分 |
| 20年以上 | 400日分 |
最下段の「20年以上で400日分」は、2019年の労働者保護法改正で追加された区分です。それ以前は最上位が300日分でしたので、長期勤続者を多く抱える老舗工場ほど、改正の影響を強く受けています。改正から時間が経っていますが、社内の古い規程や、以前に作った試算用の表計算ファイルが300日分のまま更新されていないケースは、いまでも見かけます。
この層について、正直に申し上げます。ここはAIを使う必要がまったくない領域です。入力は入社日と退職日と月給の3つだけ、出力は表引きの結果だけ。分岐は6本しかなく、例外もほとんどありません。表計算ソフトのVLOOKUPで十分ですし、給与システムに組み込むのも難しくありません。ここを「AIで自動化しました」と言うのは、率直に言って誇大です。
賃金の範囲と端数の扱いには、社内で答えを決めておく
とはいえ、層1にもまったく論点がないわけではありません。実務で確認が必要になるのは主に2点です。
1点目は「賃金」に何を含めるかです。基本給だけなのか、固定的に支給されている手当を含めるのか。タイの実務では、名目にかかわらず労働の対償として固定的に支払われているものは賃金に含まれるという考え方が採られますが、個別の手当がこれに当たるかどうかは、支給の実態によります。住宅手当や職位手当のように毎月定額で支払われているものと、実費精算の交通費とでは扱いが変わりえます。
2点目は勤続年数の端数です。タイの法令には、一定日数以上の端数を1年として扱う規定があり、区分の境目に近い従業員では、この端数の扱いだけで支払日数が一段変わることがあります。
どちらも、就業規則の定めと自社での運用実績、そして最新の解釈を踏まえて社内で答えを固めておくべき論点です。人員整理を決めてから議論を始めると、間に合いません。
層2|特別解雇補償金という盲点 — 第121条・第122条

ここからが本記事の核心です。
労働者保護法の第121条は、特定の理由による人員削減に、第118条の通常補償金とは別の義務を課しています。その理由とは、次のようなものです。
生産部門・販売部門・サービス部門の改善を目的として、機械を導入する、あるいは機械や技術を変更する。こうした事情によって従業員数を削減する場合です(なお、拠点の移転を理由とする人員整理は第120条という別の条文の対象で、通知期限も補償の建て付けも異なります。第121条が対象とするのはあくまで機械・技術の変更が引き金になったケースです)。
わかりやすく言い換えれば、自動化・設備更新を理由とする人員整理です。業績悪化による単純な人減らしとは、法的な扱いが変わります。
60日前の通知義務と、通知を怠った場合の追加負担
第121条に該当する解雇を行う場合、使用者には事前通知の義務が生じます。通知先は2つあり、労働監督官と、対象となる従業員本人です。期限は解雇日の最低60日前です。
この60日前通知に間に合わなかった場合、あるいは通知そのものを行わなかった場合、使用者は通常の解雇補償金に加えて、60日分の賃金に相当する特別な補償金を支払わなければなりません。これは第118条の補償金とは別建てです。
実務上、この60日という期間は決して長くありません。生産ラインの統合や自動化投資の意思決定は、稟議や本社承認を経て確定するまでに時間がかかります。確定してから対象者を選定し、そこから60日を数えると、当初想定していた切替時期には到底間に合わない、ということが起こります。逆算のスケジュールを引かないまま進めると、追加の60日分がそのまま費用として乗ってきます。
勤続6年を超える従業員への15日分の加算 — 見落とされるのはここ
そして、多くの試算から抜け落ちるのがこの部分です。
第121条に基づく人員削減の対象となった従業員のうち、勤続6年を超える者については、第118条の通常補償金に加えて、第122条に基づく特別解雇補償金が支払われます。その額は、勤続1年につき15日分の賃金に相当する額です。ただし総額の上限は360日分です。
ここで注意していただきたい点が3つあります。
まず、これは通常補償金の置き換えではなく加算です。第118条で240日分もらえる人が、この規定によって「240日分か15日×年数のどちらか多い方」になるのではありません。両方を足した額になります。
次に、上限が360日分である点です。第118条の最高区分は400日分ですが、こちらの上限は360日分で、数字が異なります。混同すると計算が狂います。
そして、閾値が「6年以上」ではなく「6年を超える」である点です。第118条の区分表は6年以上10年未満で240日分ですが、こちらは6年ちょうどでは対象になりません。境目にいる従業員については、端数の扱いも含めて慎重な確認が必要です。
この規定を見落とすと何が起きるか。勤続の長い従業員ほど、支払うべき額との差が大きく開きます。次章の独自試算で、その差を金額にします。
自動化を進める会社ほど、この条文に近づいていく
ここで、正直に触れておかなければならないことがあります。
TOMAS TECHは、タイの日系製造業向けに工場の自動化やシステム導入を支援している会社です。そして第121条が定める「機械の導入、機械や技術の変更による人員削減」というのは、まさに私たちがお手伝いしている領域そのものです。
自動化投資を検討される背景には、人件費の上昇や採用難といった切実な事情があります。この背景についてはタイの人件費高騰と自動化投資の判断で整理しています。そして、自動化を進めようとしても、それを設計・保守できる人材がタイ国内で不足しているという別の壁もあります。こちらは自動化を担う技術者不足とその現実的な埋め方で扱いました。
つまり、自動化は人手不足への合理的な対応であると同時に、その結果として人員構成が変わるのであれば、第121条の射程に入りうるということです。自動化投資のROIを計算するとき、設備費と保守費と削減できる人件費は必ず表に入ります。しかし、その削減を実現するために一度だけ支払う特別解雇補償金が投資判断の表に入っていることは、あまり多くありません。
これは自動化をやめるべきだという話ではありません。投資判断の初期段階から、この一度きりの費用を数字として置いておくべきだ、という話です。後から出てくると、それは想定外の損失に見えます。最初から置いてあれば、それは投資の一部です。
層3|税務の扱い — 非課税枠と分離課税
3つ目の層は課税です。支払う側の総額は同じでも、従業員の手取りが変わります。そして誤ると、企業側の源泉徴収義務の問題になります。
解雇補償金には非課税枠がある
タイでは、労働法に基づいて支払われる解雇補償金について、個人所得税の非課税枠が設けられています。金額は、直近400日分の賃金に相当する額と600,000バーツのいずれか低い方です。
この水準は、2023年1月1日以降に受け取った所得から適用されています。それ以前の制度では、300日分と300,000バーツのいずれか低い方が上限でした。日数も金額の上限も引き上げられているため、古い資料を参照したまま計算すると、非課税枠を過小に見積もることになります。
定年退職や契約満了には、この非課税措置は使えない
ここが実務で最も間違えやすい部分です。
この非課税措置の対象は、労働法上の解雇補償金です。したがって、次のようなケースは対象になりません。
| 退職の種類 | 非課税措置の対象 |
|---|---|
| 会社都合による整理解雇 | 対象になる |
| 定年退職 | 対象にならない |
| 有期雇用契約の期間満了による終了 | 対象にならない |
| 従業員本人の意思による自己都合退職 | そもそも解雇補償金が発生しない |
この区別が現場で難しいのは、支払いの見た目が同じだからです。定年で退職する従業員に会社が慰労の意味で支払う金額も、整理解雇で支払う法定の補償金も、給与システムの上では「退職時の一時金」という同じ科目に落ちることがあります。科目が同じなら、税務処理も同じでよいだろう、と流れてしまう。
結果として、2つの方向の誤りが起こりえます。定年退職者に非課税措置を誤って適用してしまうか、逆に整理解雇の対象者に適用すべき非課税措置を適用し損ねるかです。前者は企業側の源泉徴収漏れの問題になり、後者は従業員が本来払わなくてよい税を払うことになります。どちらも、後から気づくと訂正の手間が大きい種類の誤りです。
非課税枠を超えた部分の扱いは、必ず専門家に確認する
非課税枠を超えた部分については、通常の給与所得と合算せずに計算する、いわゆる分離課税の方式を選択できる制度があります。勤続年数に応じた控除を差し引いたうえで税率を適用する仕組みですが、控除をどの順序でどう適用するかの細部については、専門家の間でも説明の仕方が微妙に異なる場合があります。
したがって本記事では、この部分について具体的な数値例を作りません。金額が大きく、従業員一人ひとりの手取りに直結する部分でもありますので、実際の計算は必ず税理士または会計事務所に確認してください。ここは「AIに聞いて出てきた答えをそのまま使う」ことが最も危険な領域です。
独自試算|50名の人員整理で、見落としはいくらになるか

ここまでの整理を、金額にします。以下は独自の試算であり、実在の企業の数値ではありません。金額の絶対値よりも、層2を見落としたときに何がどれだけ抜けるかという構造をご覧ください。
想定するのは、タイ・ラヨーン県にある日系の自動車部品工場です。生産ラインの統合と自動化により、50名の人員整理を実施します。第121条の適用対象となる自動化起因の削減であり、60日前の通知は適切に行えたものとします。つまり、通知不足による60日分の追加補償は発生しない設定です。ここで浮き彫りにするのは、勤続6年を超える従業員への特別解雇補償金(勤続1年につき15日分、上限360日分)を見落とした場合のギャップだけです。
| 勤続年数帯 | 人数 | 月給(バーツ) | 日給 | 第118条日数 | 第118条金額/人 | 第121条加算日数 | 第121条加算額/人 | 合計/人 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 1〜3年未満 | 8名 | 13,500 | 450.00 | 90日 | 40,500 | なし(対象外) | 0 | 40,500 |
| 3〜6年未満 | 12名 | 15,200 | 506.67 | 180日 | 91,200 | なし(対象外) | 0 | 91,200 |
| 6〜10年未満 | 15名 | 17,800 | 593.33 | 240日 | 142,400 | 120日(勤続8年想定×15日) | 71,200 | 213,600 |
| 10〜20年未満 | 12名 | 20,500 | 683.33 | 300日 | 205,000 | 210日(勤続14年想定×15日) | 143,500 | 348,500 |
| 20年以上 | 3名 | 24,000 | 800.00 | 400日 | 320,000 | 330日(勤続22年想定×15日、上限360日以内) | 264,000 | 584,000 |
なお表中の「第121条加算」の列は、第121条に基づく人員削減において、勤続6年を超える従業員に対して支払われる特別解雇補償金を指しています。60日前通知を満たしているため、通知不足に伴う60日分は含まれていません。
集計すると次のようになります。
| 項目 | 金額(バーツ) |
|---|---|
| 第118条のみで計算した場合の総額(特別補償金を見落とした場合の支払額) | 6,974,400 |
| 第121条に基づく特別補償金の加算総額(見落としがちな部分) | 3,582,000 |
| 正しい合計額 | 10,556,400 |
見落としによる未払いのギャップは、正しい合計額の約33.9%にあたります。逆から見ると、第118条のみで計算した総額に対して約51.4%の増です。金額にして3,582,000バーツ。50名の整理解雇1回あたりで、この規模の差が生まれます。
差が生まれているのは、下から3つの行だけです。勤続6年未満の20名については、第118条と正しい額がまったく同じです。この20名の計算を何度検算しても、ギャップは1バーツも見つかりません。見落としは、計算の精度をいくら上げても発見できない種類の誤りなのです。これが、冒頭で「難しいのは算数ではない」と申し上げた理由です。
そしてもう一点。ギャップが集中しているのは、勤続の長い従業員です。20年以上の3名では、一人あたり264,000バーツ、第118条分の320,000バーツに対して8割を超える上積みになります。長く働いてきた人ほど、見落とされたときの不足額が大きい。この点は、後述する紛争リスクの性質にも関わってきます。
3,582,000バーツの未払いが意味するもの
この金額を「計算漏れ」として片づけることはできません。未払いのまま支払いを終えた場合に何が起こりうるかを、確認しておきます。
労働裁判所への申し立て
タイには労働事件を専門に扱う労働裁判所があり、労働者保護に配慮した運用がなされる傾向があります。手続の面でも、労働者側が申し立てを行うハードルは、一般の民事訴訟に比べて低く設計されています。また、支払いが遅れた分について遅延利息が発生しうる点も、実務では見落とせません。
つまり、未払いが判明した場合に企業が負担するのは、不足額そのものだけでは済まない可能性があります。加えて、対応にかかる社内の工数と弁護士費用、そして経営陣の時間が乗ります。
一人が気づけば、全員が気づく
整理解雇の対象者は、同じ工場で長年働いてきた同僚同士です。退職後も連絡を取り合いますし、支払額の話は必ず共有されます。そして今回の試算で見た通り、ギャップが生じるのは勤続6年を超える層、つまり工場の中核を担ってきた人たちです。
一人が「自分の額は法定水準に届いていないのではないか」と気づき、労働省の窓口や弁護士に相談すれば、その情報は同じ条件の残り29名に伝わります。50名のうち30名が同じ根拠で申し立てる、という展開は十分に現実的です。個別対応で収まる問題ではありません。
残る従業員と、地域での評判
整理解雇の後にも、工場は稼働を続けます。残る従業員は、去っていった同僚がどう扱われたかを見ています。支払いをめぐって紛争になれば、残留者の会社に対する信頼にも影響します。
タイの工業団地では、企業の評判は想像以上に速く伝わります。採用市場での評価にも、地域の労働当局との関係にも影響します。これらは金額に換算しにくいコストですが、存在しないわけではありません。
この3,582,000バーツは、支払わずに済むお金ではありません。法定の義務として支払うべきお金です。見落とせば、後から利息と紛争コストを上乗せして支払うことになる可能性が高い。だとすれば、最初から正しい額を試算に入れておくほうが、経営判断としても健全です。
「退職金計算AI」に何を期待してよいか
ここで本題に戻ります。この3層構造のうち、AIやシステムは、どこで役に立つのでしょうか。層ごとに正直に整理します。
| 層 | 何が必要か | 適した手段 | AIの役割 |
|---|---|---|---|
| 層1 通常解雇補償金 | 表引きと掛け算 | ルールベースの計算ロジック | ほぼ不要。AIを使う必然性がない |
| 層2 特別解雇補償金 | 解雇理由の事実認定と条文の当てはめ | 人間の判断と法務の確認 | 「この条文の検討は済んでいますか」と問いを立てる |
| 層3 課税の扱い | 退職事由の区分と税額計算 | 税理士・会計事務所 | 区分の入力漏れを検知する。税額そのものは扱わない |
この表で言いたいことは1つです。退職金計算においてAIが価値を出せるのは、計算そのものではなく、計算の前段にある「問いの網羅」です。
層1は、そもそもAIの出番ではありません。分岐が6本しかない決定表を、確率的に答えを生成するモデルに任せる理由はどこにもありません。ここは従来型のロジックのほうが速く、安く、そして再現性があります。「AIで退職金計算を自動化」という売り文句が層1のことを指しているなら、それは表計算ソフトでできることに新しい名前をつけただけです。
層2は、AIに計算させてはいけない層です。ここで必要なのは「この人員削減は機械の導入・変更によるものか」という事実認定であり、答えは社内の稟議書や投資計画書の中にあります。ただし、AIには別の使い道があります。退職手続きのワークフローの中に、判断を促す問いを確実に立てることです。
具体的には、退職処理を起票した時点で「この退職の理由は次のどれに当たりますか」という選択を必須にし、自動化や設備更新が選ばれた場合には、第121条と第122条の検討を促す。60日前通知の起算日を計算して、間に合っているかを表示する。勤続6年を超える対象者を抽出して一覧にする。こうした処理は、それ自体は高度ではありません。しかし、見落としを構造的に潰すという一点で、実際の効果があります。
層3は、AIが答えを出す層ではありません。退職事由の区分が入力されているか、定年退職に非課税措置が適用されていないか、といった整合性のチェックまでが守備範囲です。税額の最終確認は専門家の仕事です。
過大なROIは主張しません
こうした仕組みを入れれば「毎回3,582,000バーツを節約できます」という説明の仕方は、正確ではありません。この3,582,000バーツは法律上支払うべき金額であり、節約できるものではないからです。
正確に言えば、この仕組みで防げるのは未払いによる紛争と、そこに乗る遅延利息・訴訟対応コスト、そして評判の毀損です。そして、投資判断の段階でこの金額を可視化することによって、自動化投資の採算計算に一度きりの人員整理コストを織り込めるようになることです。効果は確かにありますが、金額として何倍のリターンが出ると断言できる性質のものではありません。
見落としを構造的に防ぐ設計 — 誰がどの層を持つか
最後に、実務としてどう組むかを整理します。中心にあるのは「どの層を誰が持つか」を明文化することです。
| 層 | 一次的な担当 | 必要な連携先 | 記録すべきこと |
|---|---|---|---|
| 層1 通常解雇補償金 | 人事・給与担当 | なし。システム内で完結 | 入社日、退職日、賃金の範囲の定義 |
| 層2 特別解雇補償金 | 工場長・経営層 | 人事、法務、外部の弁護士 | 削減の理由、意思決定日、通知日、監督官への届出日 |
| 層3 課税の扱い | 経理・財務 | 税理士・会計事務所 | 退職事由の区分、支給額、勤続年数 |
実務でうまく回っていない工場に共通するのは、層2の欄が空白になっていることです。「削減の理由」は経営判断なので経営層が持っています。「支払額の計算」は給与担当が持っています。ところが、その2つをつなぐ人が決まっていない。結果として、経営層は「人事が法律通りに計算しているはず」と考え、人事は「与えられた条件で表通りに計算した」と考えます。
この空白を埋める方法は、システムを入れることではありません。退職処理の起票フォームに、解雇理由の選択を必須項目として置くことです。技術的には単純な変更ですが、これによって初めて、層2の判断が誰かの手元に載ります。
月次の給与計算との違いを、はっきり分けておく
もう一点、混同されがちな点に触れておきます。退職金計算は、月次の給与計算とはまったく性質の違う処理です。
| 観点 | 月次の給与計算 | 退職金計算 |
|---|---|---|
| 発生頻度 | 毎月繰り返す | 個人につき一度だけ |
| 1件あたりの金額 | 小さい | 大きい。数十万バーツ規模になりうる |
| 間違いの発見 | 翌月に気づいて訂正できる | 支払い後に本人が去るため、社内では気づかない |
| 主なリスク | 計算誤りと処理遅延 | 項目の見落としと法的な紛争 |
| 適した対策 | 処理の自動化と省力化 | 判断の網羅と記録 |
月次の給与計算については、繰り返し発生する処理をどう省力化するかが主題になります。この点は給与計算AIとタイ工場の月次処理の組み立て方で3層構造として整理していますので、月次側の設計を検討されている方はそちらをご覧ください。
重要なのは、この2つを同じ設計思想で扱わないことです。月次の給与計算に求められるのは効率です。退職金計算に求められるのは、効率ではなく網羅性です。年に数回しか発生しない処理を高速化しても、得られるものはほとんどありません。一方で、その数回で1件でも層2を見落とせば、数百万バーツの問題になります。
人員整理を検討し始めた時点でやるべきこと
人員整理が具体的な議題になった段階で、支払額の試算より先に確認すべきことがあります。
削減の理由が第121条に該当するかどうかの整理。該当する場合の、60日前通知から逆算したスケジュール。労働監督官への届出の要否と方法。対象者のうち勤続6年を超える人数と、その特別補償金の概算。退職事由の区分と、非課税措置の適用可否。就業規則や個別の労働契約に、法定を上回る支払いの定めがないかの確認。
これらは、支払額を1バーツ単位まで詰める前に決まっていなければならない事項です。順序を逆にすると、精緻な計算をやり直すことになります。
よくある質問
退職金計算はAIでどこまで自動化できるか?
計算そのものは自動化できますが、それはAIでなくても可能です。第118条の通常補償金は入社日・退職日・月給の3項目から一意に決まるため、ルールベースのロジックで十分です。AIが価値を出せるのは、その前段にある「検討漏れの防止」です。解雇理由の入力を必須にする、通知期限を逆算して表示する、勤続6年を超える対象者を抽出する、といった処理を退職手続きのワークフローに組み込むことで、見落としを構造的に減らせます。逆に、解雇理由が第121条に該当するかどうかの最終判断や、税務上の控除計算をAIに委ねるべきではありません。
特別解雇補償金はどんな場合に発生するか?
労働者保護法第121条は、機械の導入や機械・技術の変更を理由として従業員数を削減する場合を対象としています(拠点の移転による人員整理は第120条という別の条文の対象で、本記事の第121条とは通知期限も補償の建て付けも異なります)。この場合、使用者は労働監督官と対象従業員本人に対し、解雇日の最低60日前に通知しなければなりません。通知が60日に満たない場合は、通常の解雇補償金に加えて60日分の特別補償金が必要になります。さらに、勤続6年を超える従業員には、勤続1年につき15日分、総額360日分を上限とする特別解雇補償金が、通常補償金とは別に加算されます。業績悪化による単純な人員削減とは扱いが異なる点に注意が必要です。
タイの退職金計算で最も間違えやすいのはどこか?
勤続6年を超える従業員に対する特別解雇補償金の加算です。この規定は第118条の日数表とは別の条文にあり、しかも「置き換え」ではなく「加算」であるため、日数表だけを見て計算すると完全に抜け落ちます。本記事の独自試算では、50名の人員整理でこの見落としが3,582,000バーツ、正しい合計額の約33.9%に相当しました。また、上限が第118条の400日分ではなく360日分である点、閾値が6年以上ではなく6年を超えることである点も、混同されやすい部分です。
退職金に税金はかかるか?
かかりますが、労働法に基づく解雇補償金には個人所得税の非課税枠があります。直近400日分の賃金に相当する額と600,000バーツのいずれか低い方が非課税で、この水準は2023年1月1日以降に受け取った所得から適用されています。ただし、この非課税措置は会社都合の整理解雇に伴う解雇補償金が対象であり、定年退職や有期雇用契約の期間満了による退職金には適用されません。非課税枠を超えた部分については分離課税を選択できる制度がありますが、控除の適用順序など細部の説明は専門家の間でも異なる場合があるため、実際の計算は税理士に確認してください。
遣散費の計算に、いまの給与システムをそのまま使えるか?
中国語圏の資料で遣散費と呼ばれるものが、タイの解雇補償金に相当します。多くの給与システムは第118条の日数表を持っていますが、第121条・第122条の特別補償金まで自動で判定する機能を備えているものは多くありません。理由は単純で、これらの条文の適用可否は解雇の理由によって決まり、その理由は給与システムに入力される情報ではないからです。したがって、システムの出力をそのまま最終額として扱うのは危険です。解雇理由を記録する項目を追加し、該当する場合には特別補償金の検討を促す仕組みを、システムの外側に置く必要があります。
タイの工場で人員整理を決めてから実施まで、どれくらいの期間を見ておくべきか?
第121条に該当する場合、労働監督官と対象従業員への通知から解雇日まで最低60日が必要です。ただし実務では、この60日は最短の期間にすぎません。削減の理由が第121条に該当するかの法的な整理、対象者の選定、支払額の試算、通知文書の準備、監督官への届出、そして通知後の個別面談。これらを含めると、意思決定から実施までは相応の余裕を見ておくべきです。生産ラインの切替時期から逆算すると間に合わないことが多いため、自動化投資の計画段階で、この期間をスケジュールに組み込んでおくことをお勧めします。
まとめ
タイの退職金計算で難しいのは算数ではありません。何を計算すべきかを見落とすことです。
第118条の通常解雇補償金は、勤続年数の表を引けば一意に決まります。ここは機械化しやすく、実際に多くの給与システムが対応しています。問題はその上に積まれる層です。自動化や設備更新を理由とする人員削減では、第121条・第122条に基づく特別解雇補償金が発生します。勤続6年を超える従業員には、勤続1年につき15日分、上限360日分が、通常補償金とは別建てで加算されます。
本記事の独自試算では、ラヨーン県の日系自動車部品工場が50名の人員整理を行う場合、第118条のみで計算した6,974,400バーツに対し、正しい合計額は10,556,400バーツでした。差は3,582,000バーツ、正しい額の約33.9%です。この差は、第118条の計算をどれだけ精緻に検算しても発見できません。項目そのものが視野に入っていないからです。
そして層3の課税では、解雇補償金の非課税枠が直近400日分の賃金相当額と600,000バーツのいずれか低い方であること、この措置が定年退職や有期契約の満了には適用されないことを、正確に区別する必要があります。
「退職金計算AI」に期待すべきなのは、計算の高速化ではありません。どの層で、誰が、何を判断するのかを明確にし、判断が抜けたまま処理が進まないようにすることです。層1は従来型のロジックで十分であり、層2は人間が判断すべきであり、層3は専門家の確認が要る。この線引きを設計に落とし込むことが、実務としての答えになります。
自動化への投資は、多くの日系工場にとって合理的な選択です。ただし、その自動化がタイの労働法において特別な扱いを受ける以上、投資判断の表に一度きりの人員整理コストを載せておくことが、結果として健全な意思決定につながります。
人員整理や自動化投資をご検討の段階で、支払いの全体像がどうなるのか、社内の情報がどこで途切れているのかを整理したい、というご相談も承っています。まだ実施が決まっていない検討段階でも構いませんので、お問い合わせからお気軽にご連絡ください。タイの製造現場でのシステム導入と業務設計の経験を踏まえて、現実的な進め方をご一緒に考えます。