取引先から「来週までにNDAを一本ください」と言われたとき、タイやベトナムの日系工場で最初に動くのは法務部ではなく管理部門の担当者や工場長です。日本本社の法務に投げれば数日から一週間かかり、現地の弁護士に依頼すれば費用が発生します。そこで契約書 AI 作成という選択肢が現実味を帯びてきます。ただし注意が要ります。世に出ている情報の多くは、できあがった契約書をAIで点検する「レビュー」の話であり、白紙から条項を組み立てる「作成」とは作業の性質が違います。NDAには、AIを使った瞬間に目的そのものと衝突しかねない固有の落とし穴もあります。本記事はその違いを起点に、作成にAIを使う実務を整理します。
契約書・NDA作成にAIを使うとは何を指すのか
「作成」と「レビュー」は別の作業である
同じ「契約書にAIを使う」という言い方でも、社内で想定されている作業は二つに分かれます。
作成(ドラフティング)は、まだ文書が存在しない状態から始まります。取引の実態を言葉に置き換え、必要な条項を選び、抜けている論点を埋め、条文の番号と参照関係を整える。ゼロから構造を組み立てる作業です。
レビューは、相手方から送られてきた契約書や、社内の既存ひな形が手元にある状態から始まります。自社に不利な条項はないか、期間や上限額は妥当か、社内基準から逸脱していないかを点検する作業です。出発点に文書があるという点が決定的に違います。
この二つは、AIに求める能力も、失敗したときの現れ方も異なります。
| 比較軸 | 作成(ドラフティング) | レビュー |
|---|---|---|
| 出発点 | 白紙、または社内ひな形の骨格のみ | 相手方から届いた完成文書 |
| AIに求める働き | 条項の生成、論点の網羅、文言のバリエーション提示 | 逸脱の検出、リスク箇所の指摘、社内基準との突合 |
| 主な失敗の現れ方 | 必要な条項が丸ごと抜ける、実在しない条文番号を書く | 不利な条項を見落とす、指摘が過剰で交渉が止まる |
| 秘密情報の扱い | 自社の情報を入力する場面が多い | 相手方の情報を入力する場面が多い |
| 最終判断に必要な人 | 法務・弁護士(条項の妥当性と適法性) | 法務・弁護士(交渉方針と受諾可否) |
失敗の現れ方を見比べると、作成の怖さが分かります。レビューの失敗は「あるものを見落とす」形で起き、後から別の目で読み直せば気づける可能性があります。一方、作成の失敗は「無いものに気づかない」形で起きます。準拠法条項が入っていない契約書は、読んでも違和感が出ません。問題が表面化するのは紛争が起きたときです。
レビュー側の実務はすでに別記事で扱っている
本サイトでは、既存の契約書をAIで点検する側の実務を二本の記事で扱っています。ツールの類型や精度の考え方、確認すべき論点の整理についてはAI契約書レビュー実務ガイド2026を、製造業の現場に導入する際の体制づくりと運用設計については契約書レビューAI導入2026を参照してください。本記事はその手前、文書がまだ存在しない段階の話に絞ります。実務では「作成」と「レビュー」は連続した工程になるため、本記事の後半で両者をつないだワークフローを提示します。
なお、社外に出す構造化された文書をAIで作るという意味では、提案書AI作成の進め方と共通する部分があります。定型の骨格があり、案件ごとに埋める中身が変わり、最終的に人の責任で外に出す。この構造はどちらも同じです。違いは、契約書では文言のわずかな差が法的効果を変えてしまう点にあります。

生成AIでの下書き作成が製造業の現場にも広がる背景
初稿にかかる時間が桁で変わる
契約管理プラットフォームを提供するSirion社の解説では、NDA、業務委託契約、雇用契約といった標準的な契約書について、従来は2時間から4時間程度かかっていた初稿の作成が、5分未満にまで短縮されると紹介されています。ここで短縮されているのは「初稿ができるまで」の時間であり、締結までの全工程ではないという点は押さえておく必要があります。
それでも、この差が現場に与える意味は小さくありません。タイやベトナムの日系工場では、法務専任者を置いていない拠点が珍しくなく、NDA一本のために本社法務の順番待ちに入るか、現地事務所に依頼するかの二択になりがちです。初稿が数分で立ち上がれば、少なくとも「何を決めなければいけないのか」を社内で議論する材料は当日中に揃います。議論の材料が早く出ることは、最終的な締結までの日数を縮めます。
問うべきは「AIが書けるか」ではなく「どこに置くか」
米国法曹協会(ABA)が公開している生成AIと契約ドラフティングに関する解説記事は、この論点を明確に整理しています。すなわち、問うべきは「AIが条項を書けるかどうか」ではなく、初稿生成、条項バリエーションの提示、フォールバック文言の用意、論点抽出(イシュースポッティング)、整合性チェックといった一連の作業のどこにAIを位置づけるか、という配置の問題だという指摘です。
この整理は実務的に役に立ちます。契約書作成という一つの塊で考えると「AIに任せられるか、任せられないか」の二択になってしまいますが、工程に分解すれば、任せられる部分とそうでない部分がはっきり分かれるからです。
AIが比較的うまく機能するのは、次のような作業です。
- 初稿の生成。取引の概要を伝えて、標準的な構成の草案を出させる
- 条項バリエーションの提示。同じ趣旨の秘密保持義務を、期間3年と5年、対象を限定する形と広く取る形など複数案で出させる
- フォールバック文言の用意。相手方に第一希望を断られたときの第二案、第三案をあらかじめ準備しておく
- 論点抽出。この取引形態なら通常入るはずの条項が抜けていないかを洗い出す
- 整合性チェック。定義語の使い方が全文で揃っているか、条文の相互参照がずれていないかを確認する
一方で、AIに任せるべきでない作業もはっきりしています。
- 最終的な適法性の判断。その条項が現地法で有効かどうかは弁護士の領域である
- 力関係を踏まえた交渉方針の決定。押せる相手か、譲るべき相手かはAIには判断材料がない
- 商流上の事実確認。誰が何を納め、いつ検収し、誰が責任を負うのかという取引の実態
- 社内で受け入れられるリスク水準の決定。損害賠償の上限をいくらに設定するかは経営判断である
この切り分けを社内で共有しないまま導入すると、AIが出した草案がそのまま社内承認に回るという最悪の運用になります。工程表の上で「ここまでがAI、ここからが人」という線を引いておくことが、導入の実質的な第一歩です。
製造業の現場で特に需要が高い文書
日系工場で作成頻度が高いのは、次のような文書です。
- 取引開始前の秘密保持契約(NDA)。とくに新規サプライヤーの評価段階
- 売買基本契約。個別注文の前提となる包括的な取り決め
- 業務委託契約。設備保守、システム開発、構内請負など
- 覚書・議事録型の合意文書。既存契約の一部を変更する場合
- 発注書と注文請書の裏面約款
このうちNDAは、締結件数が最も多く、かつ一件あたりの金額的重みが小さいために、丁寧な検討が省略されやすい文書です。そしてまさにその点が、次に述べる問題につながります。
NDAとAIの見落とされがちなパラドックス
秘密を守る文書を、秘密を渡しながら作る
NDAの目的は、相手方から受け取った秘密情報を守ることです。ところが、そのNDAの下書きをAIに作らせようとすると、多くの場合、次のような入力をすることになります。
「A社と、当社のB工場で製造している車載向け樹脂部品の共同開発について協議するためのNDAを作りたい。協議期間は6か月、開示する情報には金型の設計データと不良率の実績値が含まれる」
この一文には、相手方の社名、自社の製品分野、拠点、取引の目的、開示予定の情報の種類がすべて含まれています。契約書の質を上げようとするほど、入力する情報は具体的になります。これがNDAとAIのパラドックスです。秘密を守るための文書を作る過程で、その秘密を外部のサービスに渡している。
Bloomberg Lawに掲載された解説記事は、この構造をNDAドラフティングの新しい前提として扱うべきだと指摘しています。一般消費者向けのAIツール、とくに無償プランや個人向け契約のプランでは、入力された内容が事業者のサーバーで処理され、利用規約の定め方によってはモデルの学習データとして使われる可能性があります。この場合、入力という行為そのものが、NDAが定める「秘密情報の開示先の限定」に抵触しうることになります。
return-or-destroy条項が守れなくなる技術的な理由
さらに厄介なのが、多くのNDAに含まれる返却・破棄義務(return-or-destroy条項)との衝突です。契約終了時、または相手方から要求があったとき、受領した秘密情報とその複製をすべて返却または破棄し、その旨を書面で証明する。この条項は日系企業のひな形にもほぼ確実に入っています。
問題は、AIツールに入力した情報について、この義務を技術的に履行できるかどうかです。契約実務を扱う法律系ブログのterms.lawが整理しているとおり、利用者ができるのはチャット履歴の削除までであり、それは事業者側で情報が消えることを意味しません。実際には次のような場所に残る可能性があります。
- 事業者側のサーバーログ。誰がいつ何を送信したかの記録
- キャッシュされたプロンプト。処理効率のために一時保存された入力内容
- モデルの再学習に使われたデータセット。すでに学習が済んでいれば取り出して消すことはできない
- バックアップ。定期取得され、一定期間保持される
- 委託先のシステム。事業者がインフラや処理の一部を他社に委託している場合
つまり、画面上から履歴が消えても、「破棄しました」と相手方に対して正直に証明することができなくなります。証明できないということは、契約上の義務違反を問われたときに反証できないということです。NDAの返却・破棄条項は、紛争になったときに実際に持ち出される条項であり、形式的なものではありません。
もう一つ見落とされやすいのが、NDAが定める開示先の範囲です。多くのひな形では、秘密情報を開示できる相手を「本目的のために知る必要のある役員および従業員」に限定し、外部委託先への開示には事前の書面承諾を求めています。外部のAIサービスは、この定義のどこにも当てはめにくい存在です。役員でも従業員でもなく、事前承諾を得た委託先でもない。条項の書きぶりによっては、承諾なしの第三者開示に該当しうる、という読み方が出てきます。実際にどう解釈されるかは契約文言と現地法によって変わるため、既存のひな形で運用している場合は、この点を弁護士に確認しておくことを勧めます。
実務としてどう対応するか
この問題は、AIを使わないことでしか回避できないものではありません。設計で対処できます。
第一に、契約文言の側で手当てをする方法があります。NDAの秘密情報の定義や開示先の条項に、AIツールへの入力を明示的に位置づけます。たとえば、双方が業務に用いる生成AIサービスを許可された開示先の範囲に含めたうえで、その条件として学習に用いられない設定であることを求める、といった書き方です。相手方と合意しておけば、後から解釈で争う余地が減ります。ただし、こうした条項をどう書くかは契約全体の構造と現地法の扱いに関わるため、文案は必ず弁護士に確認してください。
第二に、使うツールを選びます。法人向けのAIサービスには、入力内容をモデルの学習に使用しない旨を契約で定めているものがあります。この「学習不使用(no-training)」の条件が、営業資料の一文ではなく契約書または利用規約の条文として存在するかを確認します。あわせて、データが処理・保存される国、保持期間、削除要求への対応可否も文書で確認しておきます。タイやベトナムの拠点で使う場合、個人情報が含まれるならタイのPDPAやベトナムの個人データ保護法制との関係も出てきます。
第三に、入力する内容そのものを加工します。もっとも確実な対処です。相手方の社名、金額、数量、製品名、拠点名、納期といった具体的な情報をプレースホルダーに置き換えてからAIに投入します。
- 相手方社名を「甲」「乙」または「[相手方社名]」に置き換える
- 製品名を「本製品」に、拠点名を「本工場」に抽象化する
- 金額・数量・期間を「[金額]」「[数量]」等のプレースホルダーにする
- 生成された草案に、社内の安全な環境で具体値を差し戻す
契約書の条項は、そもそも固有名詞に依存せずに書かれるものです。「甲は乙に対し」という書き方で成立する以上、AIに実名を渡す必要は、実はほとんどありません。この一手間を標準手順にするだけで、パラドックスの大部分は解消します。
なお、この三つは択一ではなく、重ねて使うべきものです。プレースホルダー化を徹底していても、法人向けの学習不使用契約があるツールを使うほうが安全であることに変わりはありません。

タイ・ベトナムでの契約・電子契約の法的位置づけ
タイの現行法(電子取引法 B.E. 2544)
タイでは、電子取引法(Electronic Transactions Act, B.E. 2544、西暦2001年)により、電子署名は書面への署名と同等の法的効力を持つとされています。この点は現行法ですでに確立しており、電子的に締結した契約が効力を持たないということはありません。
ただし適用除外があります。遺言など家族関係・相続関係の文書、および不動産登記のように政府機関への登録や提出が必要な書類は、この枠組みの外にあります。工場運営の実務では、土地・建物に関わる文書と、当局への届出書類については、電子的な締結だけで足りるとは限らないと考えておくのが安全です。実際にどの書類が対象外になるかは個別に確認が必要なため、当局提出を伴う手続きは事前に現地の弁護士または法務の専門家に確認してください。
もう一点、タイ特有の実務慣行として、署名に加えて電子社印の押印を求められることが多くあります。これは法律上の要件というより取引慣行に近いものですが、相手方が現地企業の場合、社印がないという理由で受け付けられないことは実際に起こります。
また、「信頼できる電子署名」に該当する要件を満たす場合、その署名の有効性は法的に推定され、無効を主張する側が反証責任を負うことになります。署名の方式をどこまで厳密にするかは、契約の重要度に応じて判断することになります。
タイの2026年改正草案は「まだ成立していない」
ここは慎重に扱う必要があります。タイの電子取引開発庁(ETDA)は、2026年5月12日から6月15日にかけて、電子取引法の全面改正案をパブリックコメントに付しました。この草案には、実務に影響しうる方向性が含まれています。
- 電子署名の定義に生体認証データを含めることを明記する
- 人の目視確認や介在なしに、自動化されたシステム同士、またはシステムと個人との間で成立した契約についても、法的な拘束力と有効性を認める
- 意図しない誤操作については、発見後すみやかに通知すれば取り消せる保護規定を置く
このうち二点目は、将来的にシステム間で自動的に発注や契約が成立する運用を考えている企業にとって重要な変更になり得ます。
ただし、この草案は2026年8月時点でまだ法律として成立していません。今後、議会での審議を経る必要があり、成立し施行に至るまでには、現時点からさらに1年程度を要すると見込まれています。したがって現時点では、現行の電子取引法(B.E. 2544)を前提に実務を組み立て、改正の動向は情報として追いかける、という姿勢が適切です。改正内容を前提にした運用設計は時期尚早であり、最終的な適用関係は成立後の条文と施行規則を弁護士に確認する必要があります。
ベトナムの電子取引法2023
ベトナムでは、国会が2023年6月22日に改正電子取引法(Law on Electronic Transactions, Law 20/2023/QH15)を可決し、2024年7月1日から施行されています。2005年に制定された旧法に代わるもので、こちらはタイの改正案と異なり、すでに効力を持っている点に注意してください。
実務上の要点は二つです。
一つは、データメッセージの原本性です。作成された時点から内容の完全性が保たれており、かつ必要なときにアクセスして利用できる形で保存されている場合、そのデータメッセージは原本と同等の効力を持つとされています。逆に言えば、改ざんされていないことを示せる保存方法をとっていなければ、原本としての主張が難しくなります。
もう一つは、海外の認証事業者が発行した電子署名・電子証明書の扱いです。法が定める所管省庁(制定当時は情報通信省)の手続きを経れば、法的に認められます。日本本社と同じ電子署名基盤をベトナム法人でも使いたい場合は、この手続きの要否と、省庁再編を踏まえた現時点の窓口を、申請前に確認しておく必要があります。
タイとベトナムの比較
| 項目 | タイ | ベトナム |
|---|---|---|
| 根拠法 | 電子取引法 B.E. 2544(2001年) | 電子取引法 Law 20/2023/QH15 |
| 施行状況 | 施行済み。2026年5月から6月に全面改正案のパブコメを実施、審議前 | 2024年7月1日施行済み(2005年法を置き換え) |
| 電子署名の効力 | 書面署名と同等。信頼できる電子署名は有効性が推定される | 電子署名は法的効力を持つ |
| 適用除外 | 遺言等の家族・相続関係文書、政府機関への登録・提出書類 | 個別に定めあり。登記等は別途要確認 |
| 原本性の扱い | 電子的記録の保存要件を法が定める | 完全性が保たれアクセス可能なら原本と同等 |
| 海外事業者の証明書 | 個別に要確認 | 所管省庁の定める手続きを経れば承認される |
| 実務上の慣行 | 電子社印の押印を求められることが多い | 企業印の運用は取引先により差がある |
なお、この表は2026年8月時点の一般的な整理であり、個別の契約類型や当局への提出要否によって扱いが変わります。実際の適用可否は現地の弁護士に確認してください。
「AIで下書きを作ること」と「契約が有効に成立すること」は別の論点である
ここで最も重要な整理をします。上に述べた電子取引法の話は、契約がどう成立し、どう署名されるかという締結プロセスの話です。AIが下書きの文章を書くこととは、まったく別の論点です。
タイの2026年改正草案が扱っている「自動化されたシステム同士で成立した契約の有効性」も同様で、これは人の介在なしに契約が締結される場面を想定した規定であり、人間が最終的に内容を確認して署名する契約の下書きをAIが書いた、という話とは関係がありません。この二つを混同した説明が散見されるため、注意が必要です。
整理すると次のようになります。契約書の文案を誰が(あるいは何が)作成したかについて、タイの現行法もベトナムの現行法も、特段の制限を置いていません。契約の効力を左右するのは、当事者に締結の意思があり、内容に合意し、有効な方法で署名がなされたかどうかです。したがって、AIで下書きを作ること自体は、最終的な締結を正規の方法で行う限り、現行法のもとでも、また前述の改正草案が仮に成立した場合でも、問題になる性質のものではないと考えられます。個別の契約についての判断は弁護士への確認が前提です。
問題になり得るのは、下書きの過程で秘密保持義務や個人情報保護の義務に違反した場合、そして生成された条項の内容に瑕疵があった場合です。前者は前章で扱った論点、後者は次章で扱う運用の論点です。

現実的な運用フロー|下書きはAIに、確定は人に
ひな形と承認済み条項ライブラリを先に整える
AIに白紙から契約書を書かせるのは、実は最も効率が悪く、最もリスクが高い使い方です。生成される条項は一般論としては妥当でも、自社が過去に法務のチェックを通してきた文言とは異なります。結果として、毎回ゼロから内容を確認しなければならなくなります。
先にやるべきは、社内のひな形と承認済み条項ライブラリの整備です。過去に締結した契約から、法務または顧問弁護士の確認を経た条項を抜き出し、種類ごとに整理しておきます。秘密保持の範囲、期間、返却・破棄、準拠法、紛争解決、損害賠償の上限といった主要な論点について、標準案と譲歩案を持っておく形です。
そのうえでAIには、次のような役割を割り当てます。
- 取引の概要から、必要な条項の一覧を洗い出す
- ライブラリから該当する条項を選び、案件情報を穴埋めした草案を組み立てる
- ライブラリに該当がない論点について、条項案を複数パターン提示する
- 出来上がった草案の定義語の統一と条番号の整合を確認する
この形にすると、AIが生成した「新しい文章」の割合が下がり、人が確認すべき範囲がはっきりします。作業量が減るのは、AIが文章を書くからではなく、確認すべき箇所が特定できるからです。
具体的な情報はプレースホルダーのまま扱う
前章で述べたとおり、相手方の秘密情報や取引条件は、プレースホルダー化してからAIに渡します。実務では、次の運用が現実的です。
- 案件ごとに「事実シート」を社内システムで作り、社名・金額・数量・期日をそこに記録する
- AIには抽象化した条件のみを渡し、草案を作らせる
- 出来上がった草案に、社内で事実シートの値を差し込む
- 差し込み後の完成版は、社外のAIサービスには再投入しない
最後の一点が抜けやすい部分です。草案作成時にプレースホルダーを徹底しても、完成版を「最終チェックして」とAIに投げてしまえば、そこで具体情報が渡ります。作成時と確認時の両方で、同じ基準を適用してください。
生成された条項は必ず法務・弁護士が最終確認する
AIが出した草案には、専門家の確認が不可欠です。とくに次の条項は、間違いが表面化するのが紛争時になるため、必ず個別に確認します。
- 準拠法条項。タイ法か、日本法か、第三国法か。相手方の所在地と履行地との関係で妥当か
- 紛争解決条項。裁判管轄か仲裁か。仲裁ならどの機関か、言語は何か、仲裁地はどこか
- 損害賠償の上限。上限額の設定、間接損害・逸失利益の除外、上限の適用除外事由
- 秘密保持の期間と存続条項。契約終了後も残る義務の範囲と年数
- 不可抗力条項。何を不可抗力に含めるか、その場合の効果
- 知的財産の帰属。共同開発の場合、成果物の権利がどちらに帰属するか
これらは一般的な文例が出回っているぶん、AIも「それらしい」文章を出します。しかし、その文言が自社の取引実態と現地法に照らして妥当かどうかは、条文を読んだだけでは判断できません。ここは費用をかけるべき部分です。
多言語契約では優先言語条項を必ず入れる
タイ・ベトナムの実務では、契約書が複数言語で作られることが頻繁にあります。日本語と英語、英語とタイ語、あるいは三言語併記という形です。
このとき必ず入れるべきなのが優先言語条項(language clause)です。各言語版の間で解釈に食い違いが生じた場合、どの言語版が優先するかを定める条項です。これが無いまま紛争になると、そもそもどの文言を基準に判断するかから争うことになります。
AIに多言語版を作らせる場合、次の点を運用に組み込んでください。
- 優先言語をどれにするかを、AIに任せず社内で先に決める
- 優先言語条項を、ひな形に最初から入れておく
- 優先言語版を確定してから、他言語版を作る。同時並行で作らない
- 他言語版は翻訳の正確性を人が確認する。とくに数値、期日、金額の単位
- 当局への提出が必要な文書は、現地語版の要否を事前に確認する
翻訳の精度そのものはAIが得意とする領域ですが、契約書の翻訳では「どちらが正本か」という設計が先にあり、それは法的な判断です。
作成、AIレビュー、人の最終確認という三段構え
以上をまとめると、現実的なワークフローは次の三段になります。
第一段は作成です。ひな形と条項ライブラリを土台に、プレースホルダー化した条件でAIに草案を組ませます。ここで得られるのは「議論の出発点になる文書」であり、完成品ではありません。
第二段はAIによるレビューです。作成した草案を、別の観点から点検します。論点の抜け、定義語の不整合、条番号の参照ずれ、社内基準からの逸脱。この工程の具体的な進め方はAI契約書レビュー実務ガイド2026で扱っています。作成に使ったのと同じ思考の流れで点検すると見落としが出るため、レビューは別の観点・別の基準で行うことに意味があります。
第三段は人の最終確認です。法務担当者、または顧問弁護士が、内容の妥当性と適法性を確認します。ここは省略できません。製造業の現場でこの三段構えをどう定着させるか、誰が承認権限を持つかといった体制の設計については契約書レビューAI導入2026を参照してください。
重要なのは、三段のそれぞれで残る記録を決めておくことです。どの版を誰がいつ作り、何を修正し、誰が承認したか。この記録が残っていれば、後から「なぜこの条項になったのか」を追えます。契約は締結して終わりではなく、数年後に読み返される文書です。
契約書作成AIの導入で失敗しないための注意点
よくある失敗のパターン
導入がうまくいかない場合、原因はたいてい次のいずれかです。
- ツールだけ導入し、ひな形と条項ライブラリを整備していない。結果として毎回ゼロから確認が必要になり、時間が減らない
- 「AIが作ったから大丈夫」という前提で承認プロセスを省略した。数年後に紛争で発覚する
- 秘密情報の入力ルールを決めずに現場に開放した。気づいたときには複数の案件情報が外部サービスに渡っている
- 作成とレビューを同じツール・同じ手順で回してしまい、点検が形骸化した
- 現地法の確認を後回しにした。優先言語や当局提出の要件が後から出てきて作り直しになる
いずれも、ツールの性能ではなく運用設計の問題です。
何から着手するか
はじめての導入であれば、対象をNDAだけに絞ることを勧めます。理由は三つあります。件数が多いため効果が見えやすいこと、構造が比較的定型的でひな形化しやすいこと、そして本記事で扱ったパラドックスの検討を通じて、秘密情報の入力ルールを社内で先に固められることです。
NDAで運用が回るようになってから、売買基本契約や業務委託契約に広げていく。この順番であれば、途中で運用ルールを作り直す手戻りが起きにくくなります。
TOMAS TECHの立ち位置
ここで明確にしておきます。TOMAS TECHは法律事務所ではなく、弁護士でもありません。契約条項の適法性の判断、契約内容についての法的助言、紛争が生じた場合の対応といった法務の領域は、私たちの業務範囲ではありません。これらは必ず、弁護士または法務の専門家にご相談ください。
私たちが支援できるのは、その手前と周辺にある仕組みの部分です。具体的には、社内のひな形と承認済み条項をどう整理してシステム上に置くか、案件情報をどこで管理し、どうプレースホルダーに流し込むか、AIツールへの入力ルールをどう業務手順に組み込み、誰がどの段階で承認するかというワークフローをどう設計するか、そしてタイ・ベトナムの拠点と日本本社をまたぐ承認の流れをどうシステムで支えるか、といった領域です。
法的な中身は専門家に、仕組みの部分は私たちに、という切り分けでご理解いただくのが正確です。
よくある質問
契約書のAI作成は違法ですか
タイの電子取引法(B.E. 2544)にも、ベトナムの電子取引法(Law 20/2023/QH15)にも、契約書の文案を誰が作成したかを制限する規定はありません。契約の効力を決めるのは、当事者に締結の意思があり、内容に合意し、有効な方法で署名がなされたかどうかです。したがって、AIが下書きを作ること自体を禁じる規定は見当たらない、というのが2026年8月時点の一般的な理解です。ただし、下書きを作る過程で秘密保持義務や個人情報保護の義務に違反した場合は別の問題になります。また、業として他人の法律事務を取り扱うことに関する規制は国ごとに異なるため、社外向けに契約書作成サービスを提供する形を検討している場合は、別途の検討が必要です。いずれにせよ、自社の具体的な運用が問題ないかどうかの最終判断は、弁護士または法務の専門家に確認することを前提としてください。
NDAの下書きにChatGPTを使ってもいいですか
使い方によります。無償プランや個人向け契約のプランに、相手方の社名や具体的な取引条件をそのまま入力するのは避けるべきです。入力内容が事業者側で処理・保存され、利用規約次第では学習に使われる可能性があり、そうなるとNDAが定める開示先の限定や返却・破棄義務との整合が取れなくなります。使うのであれば、学習不使用(no-training)を契約で定めた法人向けプランを選び、かつ相手方の具体情報はプレースホルダーに置き換えてから入力してください。この二つを両方満たしていれば、実務上のリスクは大きく下がります。判断に迷う場合は、社内の情報管理規程と照らして法務に確認するのが確実です。
AIが作った契約書はそのまま使えますか
そのまま使うことは推奨できません。AIが生成する条項は、一般的な文例としては妥当に見えても、自社の取引実態や現地法に照らして適切かどうかは別の話です。とくに準拠法、紛争解決、損害賠償の上限、知的財産の帰属といった条項は、間違っていても読んだだけでは分からず、紛争が起きて初めて問題が表面化します。また、作成の失敗は「必要な条項が丸ごと抜ける」形で起きるため、書かれている内容を確認するだけでは足りません。AIの草案は議論の出発点として扱い、最終的な内容は法務担当者または弁護士の確認を経てください。
タイ・ベトナムでAIが下書きした契約書は有効ですか
契約の有効性は、下書きを誰が書いたかではなく、締結のプロセスによって決まります。タイでは電子取引法(B.E. 2544)により電子署名が書面署名と同等の効力を持ち、ベトナムでも2024年7月施行の電子取引法により電子的な締結が法的効力を持ちます。したがって、AIが下書きした契約書であっても、内容に当事者が合意し、有効な方法で署名すれば、通常の契約と同じく効力を持ちます。なお、タイでは2026年5月から6月にかけて電子取引法の全面改正案がパブリックコメントに付されましたが、2026年8月時点でまだ成立しておらず、現行法が適用されます。個別の契約類型については現地の弁護士に確認してください。
契約書作成AIとレビューAI、どちらを先に導入すべきですか
自社が置かれている状況によります。相手方から送られてくる契約書を検討する場面が多いのであれば、レビューから入るほうが効果が出ます。逆に、自社から契約書を提示する場面、とくにNDAを自社ひな形で出す場面が多いのであれば、作成から入るほうが実務に合います。タイ・ベトナムの日系工場では、新規サプライヤーの評価でNDAを自社から出す機会が多いため、作成から着手するケースが目立ちます。ただし、どちらから始めても最終的には作成とレビューを組み合わせた運用に行き着くため、最初の段階で「作成、AIレビュー、人の最終確認」という三段の全体像を描いておくことを勧めます。
まとめ
契約書とNDAをAIで作ることは、レビューとは別の作業です。レビューの失敗が「あるものを見落とす」形で起きるのに対し、作成の失敗は「無いものに気づかない」形で起きます。この違いが、確認のしかたを変えます。
そのうえで、NDAには固有のパラドックスがあります。秘密を守るための文書を作る過程で、その秘密を外部のサービスに渡してしまう。返却・破棄義務まで考えると、チャット履歴を消しても事業者側のログやバックアップまでは消せないため、「破棄した」と証明できなくなります。対処は三つ、契約文言での手当て、学習不使用契約があるツールの選択、そして具体情報のプレースホルダー化です。とくに三つ目は今日から始められ、効果も大きい対策です。
タイとベトナムの法制度については、AIで下書きを作ることと、契約が有効に成立することは別の論点だという整理が出発点になります。タイの2026年改正草案は自動化されたシステム間の契約成立を扱うものであり、AIによる下書きの話ではありません。しかもこの草案は2026年8月時点でまだ成立しておらず、現行の電子取引法(B.E. 2544)が適用されます。ベトナムの電子取引法2023は2024年7月に施行済みで、こちらはすでに効力を持っています。いずれも、個別の適用関係は弁護士への確認が前提です。
運用としては、ひな形と承認済み条項ライブラリを先に整え、AIには穴埋めと条項候補の提示までを任せ、作成、AIレビュー、人の最終確認という三段で回す。この形が現実的です。
私たちTOMAS TECHは法律事務所ではないため、条項の適法性や契約内容の判断は弁護士の領域としてお任せしています。一方で、ひな形と条項ライブラリをどうシステム上に整理するか、案件情報をどこで管理してプレースホルダーに流し込むか、AIへの入力ルールをどう業務手順に組み込むか、拠点と本社をまたぐ承認の流れをどう設計するかといった、契約書のシステム化とワークフロー設計の部分はお手伝いできます。ツールを決める前、あるいはどこから手をつけるか迷っている検討初期の段階でも構いません。現在の文書管理と承認の流れを伺いながら、まず何を整えるべきかを一緒に整理するところからで結構です。ご相談はお問い合わせページからお気軽にどうぞ。
参考情報
- NDA Automation and Tracking Playbook — Sirion — 標準的な契約書について、従来2時間から4時間程度かかっていた初稿の作成が5分未満に短縮されるという記述
- Using Generative AI in Contract Drafting — American Bar Association — 問うべきは条項を書けるかではなくAIをどこに位置づけるかという論点整理、初稿生成・条項バリエーション・フォールバック文言・論点抽出・整合性チェックという工程の分解
- Non-Disclosure Agreement Drafting Must Account for AI’s Risks — Bloomberg Law — 一般消費者向けAIツールへの入力がNDAの開示先限定条項に抵触しうるという指摘
- AI in NDAs — How to Stop Your Secrets from Becoming Training Data — チャット履歴を削除してもサーバーログ、キャッシュ、再学習データ、バックアップ、委託先システムまでは消せず返却・破棄義務を証明できなくなる問題
- タイの電子署名・電子契約の法制度 — BUSINESS LAWYERS — タイ電子取引法(B.E. 2544)による電子署名の効力、適用除外の範囲、電子社印の実務慣行、信頼できる電子署名の有効性の推定
- Thailand Set to Overhaul Its E-Transactions Framework — Tilleke & Gibbins — ETDAが2026年5月12日から6月15日に実施したパブリックコメント、生体認証データの位置づけ、自動化されたシステム間で成立した契約の有効性、成立・施行までの見通し
- Unpacking Vietnam’s Law on E-Transactions 2023 — International Bar Association — 2023年6月22日可決・2024年7月1日施行の経緯、データメッセージの原本性要件、海外認証事業者の電子署名・電子証明書について所管省庁(制定当時は情報通信省)の手続きを経れば承認される点